いつも閲覧有難う御座います。 柿添です。一つ御願いがあります。 「目下、我が国は妖悪不浄の雲に覆われ、 政治、経済、社会その何れに於いても、 未曾有の国難に瀕している。 多くの日本人は、己の神を見失い、 未来になんら希望を見出せず、 無為無策のまま時代の波に翻弄されている。 かかる状況に在って、我々神の子は 肇国の原点に立ち返り、天孫降臨以来 脈々と受け継がれてきた、かんながらの 精神に則り、神のみはかりを尊び、 祖先の恩に報いるべく正しき道を歩み、 互いを尊重し、共に生きる喜びに溢れた、 人類の理想郷たる豊葦原の瑞穂の国、 神国日本の再興を招来すべく 一層奮励努力せねばならない。 我々は、道を見失い失意の淵にある わけみたまに、共通の行動原理を示し、 連帯の絆を育み、さらにより一層 強固なものとし神国日本の再興を招来する 原動力としたいと思う」 そこで今後、日本復活に向けて共に知恵を 出し合い活動する同志を求めます。 活動母体は「日本復活講」と名付けます。
老若男女問わず、我こそはと思う方は、 下記へ送信願います。 宜しくお願い申し上げます。 pripia@nona.dti.ne.jp

2017年05月30日

お知らせ

諸君。
本当に久々の投稿だ。
私は死んではいない。死んだふりをしていただけだ。
なんちゃって。

3月7日、5月1日に渋谷クロスFMというコミュニティFMに出演したのだが、
その模様が映像配信されたので、リンクを貼ります。

https://www.youtube.com/watch?v=mV_-Kmbxfh4&t=2665s 3月7日放送分
https://www.youtube.com/watch?v=5GFEiSbAWLs&t=2639s 5月1日放送分
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2016年10月13日

お知らせ

諸君。

目下の、我国に於ける、家庭ならびに家族関係の劣化に伴い
次代を担う子供たちの受難が続いている。
そこで、私は、まっとうな家庭を造るべく新たな事業を立ち上げた。

こちらを参照されたし。
これも、日本復活講の一環として理解して欲しい。

http://kozenbo.co.jp/
http://ameblo.jp/kozenbo/
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2016年03月16日

日高見国の結界は破られた

あれから5年。未曽有の惨禍をもたらせた東日本大震災において亡くなられた、
我がわけみたまに対し、改めて哀悼の意を表します。

日を追うごとに明らかになって来た人的ならびに物的被害の甚大さに、
大自然の脅威に対する人間の無力さを思い知らされたが、当時の民主党菅内閣の
無能ぶりには怒りを通り越して哀れみさえ覚えてしまう。
愚かな民主党政権の狼狽を尻目に、米軍は「オペレーションTOMODACHI」なる
見え透いた子供じみた名称の作戦を粛々と実行し、被災者のハートをがっちりと掴み、
確実に好感度を上げた。
震災発生後、計ったかのような絶妙なタイミングで三陸海岸沖に駆け付けた米原子力空母は、
その名もロナルド・レーガンだが、かつてロン・ヤスと呼び合った欺瞞に満ちた
日米協調時代を意識していたのか否かは定かでは無いが、悪魔は友人の振りをして
近付いて来るのが常である。

今回の震災で特に甚大な被害を被ったのは、福島県北部から岩手県にかけての地域であるが、
その領域は古史古伝『秀真伝(ほつまつたえ)』に伝わる日高見国(ひたかみのくに)の版図に
ピタリと一致する。
『秀真伝』は一説によるとウガヤ朝末期、紀元前668年より代々大物主神の一族が著したとされ、
全文は長歌形式にしてホツマ文字という神代文字で書かれている。
その内容としては、天地開闢よりヤマトタケルの帰幽までが叙情的に綴られている。
また、古事記の下敷きになったとの説もある。
太古の昔、我国は日高見=東北、秀真国(ほつま)=関東・東海、
紀志伊(きしい)=紀伊・志摩・伊勢、中国(なかくに)=近畿、根国(ねのくに)=北陸、
細矛千足国(さほこちたるのくに)=山陰、阿波=四国、月隈(つきすみ)=九州の八か国に
分かれていたが、中でも日高見国が世界の文明の発祥地であり、仙台多賀城において
国常立神が政治を行なったという。
大祓詞には、日高見国に太い宮柱を立て千木を高くそびやかせた宮殿を築き、
皇御孫(すめみま)が平らけく安らけく知ろしめしたとの記述もあり、そっくりそのまま
秀真伝の伝承を裏付けている。

しかし、時代が下るにつれて政治の中心は秀真国を経て中国へと移り、
カムヤマトイワレヒコ命=神武天皇が大和に朝廷(カムヤマト朝)を開いてからは、
天孫族は日高見国を、まつろわぬ者どもの跋扈する遅れた辺境の地と喧伝し貶めただけでなく、
同国を治めていた国常立神を祟り為す大邪神として封じ込めてしまった。
大和から見て日高見国は艮の方角=北東表鬼門に位置しており、国常立神を艮の金神の正体
とする伝承も天孫族によって創作された可能性が極めて高い。

目下、中東においてサタンの奴隷=ネオコン一派はハルマゲドンを成就すべく
「中東大混乱」状況の確立を目論んでいる。ハルマゲドンとは世界の文明の終焉を意味する。
何としても奴らの野望を挫き、悪魔をカグツチの聖なる火炎で焼き尽くさねばならない。
カグツチとは火の神にして榛名神社の御祭神である。これも「ハルナの御用」である。
が、しかし、天使が悪魔を滅する事は絶対に不可能である。ミカエルはルシファーを倒せ無い。
何故なら天使と悪魔は同根であり表裏一体であるからだ。

ハルマゲドンを制し、立て替え立て直しの御神業を成し遂げる事が出来るのは、
日本の神々と我ら神の子たる日本人である。
その為に、高天原は天孫族によって日高見国に張り巡らされていた結界を破り、
救いの神たる国常立神以下、封印された国津神にお出まし頂く為、ある重大な決定を下した。

それこそが、今回の東日本大震災である。

震災は神々の意思である。震災が人為=HAARPであるとの見方も在るが、
奴らを使嗾しHAARPを作動させたのも高天原の意思である。
高天原は人類を救うべく巨大地震を引き起こし、日高見国の結界を破り、津波によって禊祓し、
封印された神々を鎮魂されたのだ。御神意たる天変地異とは偉大なる鎮魂の道場である。
残念ながら多くの尊い命も失われたが、神々によって選ばれた彼らは、
善く國體の精華を発揮せられた。

今後の状況の推移は、ヨハネの黙示録に暗示されている。
神は七体の天使に対し、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぐよう命じた。
第六の天使が鉢の中身をユフラテ川に注ぐと、太陽の出る方角から来る王たちの道が出来た。
さらに第七の天使が鉢の中身を空中に撒くと「事は成就した」という神の声が響いた。
次いで地上を堕落させた大淫婦が裁かれ、ついに天の門が開いた。門の中からは、
白馬の騎士が現れ、騎士に率いられた天使の軍隊は悪魔の軍勢を撃破し、
鳥たちはその肉を飽きるほど食べた。こうしてサタンは囚われの身となり鎖で縛られ
牢獄に封印され、ようやく「千年王国」が現出し、世界に平和が訪れた。

太陽の出る方角とは日本。王=騎士とは日本の軍神(いくさがみ)である。
国常立神は言うに及ばず、アラハバキ、アテルイ、平将門、源義経ら日高見国に
封じられていた神々は大挙してユフラテ川を渡り、十拳(とつか)の神剣によって
悪魔の軍勢を悉く八つに裂くだろう。

安倍政権による安全保障関連法案の成立は、その型示しである。
高天原は我ら日本人に、いったい、これから何をさせようとしているのか?
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2016年03月14日

艮の金神と国常立神

艮(うしとら)の金神ほど、その評価が両極端に分かれる神はいない。
祟り神として畏れる人がいるかと思えば、救いの神として崇める人もいる。
艮の金神とは「金神」が艮の方向(北東表鬼門)に坐すという意味であり、
艮の金神なる神が常在している訳では無い。

そもそも、金神とは年・月・四季に応じて、その居所を変える「遊行神」であり、
金神の坐す方角は大凶であるが故に、動土、普請、移転、嫁取りなど、何人も侵しては
ならないとして厳しく戒められてきた。もし侵したならば、身内の者が七人まで死ぬと
されている。これを金神七殺という。
金神は殺戮を好み祟りを為す大邪神であり、中でも北東の艮の方角すなわち表鬼門に在る時は、
最も霊力が強くなるとされ、人々から忌み嫌われてきた。
平安京の北東に延暦寺を建立し鬼門を封じたのもそのためであると伝えられている。
一方、艮の金神を偉大な神とする伝承もある。竹内文書では天神六代を国万造主大神身光天皇、
皇后を国万造美大神と伝え、それぞれ記紀における国之常立神、豊雲野神に比定しているが、
国万造主大神すなわち国常立神は、宇宙と地球ならびに森羅万象大自然を修理固成し、
人間と生きとし生けるもの全てを産み出した偉大な創造神とされ、大本では同神を艮の金神と
し国祖と讃えている。

大本には国祖が金神となった悲劇的な顛末が伝えられている。
出口王仁三郎の『霊界物語』によれば、国祖によって産み出された人間が増えるに従い、
その吐き出す息によって妖悪不浄の雲が生じ、神界も現界も次第に乱れ、神も人も荒廃し
穢れに穢れてしまった。そこで、国祖は綱紀粛正を図るべく「天地の律法」を定めたものの、
あまりにも厳しい内容だった為、神々が天の大神様(スサノオ)に訴えたが国祖は聞き入れ
なかった。天の大神様は大勢を占める神々の意見を入れ、神謀りにかけ泣く泣く国祖に隠退を
命じた。国祖は神謀りによって北東鬼門艮の地(崇教真光では摩周湖)に封印され、
妻神の豊雲野神は夫に殉じて南西裏鬼門坤の地(崇教真光では開聞岳)に自らお籠りになって
しまわれた。
体主霊従に堕し魔に魅入られた神々は国祖夫妻をそれぞれ「艮の金神」「坤の金神」と称し、
邪悪な祟り神として人々に喧伝し、それが今に伝えられている。そればかりか、神々は国祖の
復活を恐れ、肉体を切り刻み五節に配すという酷い仕打ちを行なった。
元旦に供える鏡餅は国祖の骨を用い、門松は国祖の墓標とした。桃の節句の蓬の草餅は
国祖の皮膚、端午の節句の菖蒲の粽は国祖の髭と髪、七月七日七夕の素麺は国祖の筋、
九月九日重陽の節句の黄菊の酒は国祖の血でこしらえた。更に、蹴鞠の鞠は国祖の頭、
弓の的は国祖の目になぞらえ、節分の柊の棘で国祖の目を突き、鰯の頭を国祖の頭として
串刺しにし、国祖の目を潰そうとして炒り豆を投げて「鬼は外。福は内」と呪詛し続けてきた。

こうして国祖の封印から長い年月が過ぎ、世の中は、ますます乱れ魑魅魍魎が跋扈する
鬼畜世界の様相を呈してきた。が、ついに明治25年節分の日、天の大神様(スサノオ)は
国祖の御霊を出口なおに降ろして「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」
との託宣を下し、立て替え立て直しの御神業に着手された。
ちなみに、大本成立以前に出口なおが帰依していた、安政6年に開かれた金光教も金神を
万物守護の神「天地金乃神」と崇めている。このことから、なおの筆先を疑問視し、大本の教えは
金光教の教義の焼き直しではないかと、いぶかる向きもあるが、決してその様な事は無い。
国常立神は差し迫った国難に対処すべく、御自らの想いを託す事の出来る霊媒となる神の子、
すなわち出口なおを求めていたのだ。思えば、大本は国家権力によって大弾圧を受けたが、
これも国祖を封印した邪神のなせる業か。

大本大弾圧の後、国常立神は岡本天明に一縷の望みを託し以下の神示(日月神示)を下した。
「国常立神もスサノオも大国主命も総て地(智)にゆかりのある神々は皆、九(光)と十(透)の世界に
居られて時の来るのをおまちになってゐたのであるぞ、地は智の神様が治らすのぞと知らして
あろうが、天運正にめぐり来て、千(智)の岩戸(言答)はひらかれて、これら地(智)にゆかりのある
大神達が現れなされたのであるぞ、これが岩戸開きの真相であり、誠を知る鍵であるぞ」
地にゆかりのある大神達は、全て邪神によって封印された神であり、国津神である。
九と十の世界とは謎だが、伊勢神宮内宮の鰹木は十本で外宮は九本である事と、
奇妙に一致する。今後の解明が待たれよう。

目下、世界では神々の争いが現界に波及し混迷の度を増してきている。

3・11によって国津神の封印は解かれた。
日本は世界の雛型である。真の立て替え立て直しは始まった。

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2016年03月11日

霊魂とは何か

2004年に「21グラム」と題するハリウッド映画が公開された。
これは心臓移植をめぐっての人間模様を描いた物語だが、人が死ぬと21グラム軽くなり、
この失われた21グラムこそが人の霊魂の重さである事が劇中で暗示されている。
ハリウッド映画だけに、21という数字には何か意味が隠されているのではないか?
と勘繰りたくなるが、それはさておき、日本人にとっては、霊魂の重さなどさして重要では
ないが、全てを数値化しなければ気が済まないユダヤ人の性が垣間見えて興味深い。
と、いうわけで、今回は霊魂について述べようと思う。

霊魂とは、我国において一般的には、肉体に対する対立概念であり、精神の働きを左右する
何ものかである。という程度の捉え方しかなされていない。神の国の民として情けない限りだ。
霊魂は神より分け与えられた妙なるエネルギーである。残念ながら現時点では、そうとしか
言い様が無い。
エネルギーである以上、質量を持つ。もちろん21グラムであるかどうかは定かで無い。

そして、便宜上まとめて霊魂と称されているが、実は霊と魂(たましひ)とは別のものであり、
両者は、その役割において厳然と分かたれている。
霊と魂の関係は、量子論で謂うところの原子核を霊に、原子核の周りを回る電子を魂に
なぞらえると分かり易い。霊も魂も、どちらが欠けても成り立たず不即不離の関係にあるのだ。
まず、霊には直霊(なおひ)と曲霊(まがつひ)という二つの状態がある。直霊は霊の理想的な状態、
澄みて清らかな状態を指す。曲霊は魔に魅入られた状態で、曲霊を直霊に戻す為に禊祓を行なう。
そして、心の在り方が直霊と曲霊とを峻別する。
悪しき心は霊を曲霊へと導き破を招く元と為す。心とは、これ程までに大切なものだが、
清浄な心を保つ事は極めて難しいものである。
一方、魂には四つの働きがある。すなわち、荒魂・和魂・幸魂・奇魂である。
荒魂は武勇攻を司り、和魂は睦慈愛を、幸魂は弥栄を、奇魂は智巧超を司るとされている。
さらに、荒魂と和魂は肉体に関与し特に魄(はく)と称され、幸魂と奇魂は精緻な力の源で
魂(こん)という。
この様に、人間は一つの霊と四つの魂を備えていると考えられている。これを一霊四魂という。
ここで、大抵誤解が生じるのだが、魂が人の心を支配している訳では無い。心が行動を決し、
行動の原動力となるものが魂なのだ。これは、人のみならず神の御心についても同様である。
古事記において、スサノオの御心が邪に傾き荒魂が発動したが為に、高天原にて乱暴狼藉を
働いてしまったのだ。

ところで、伊勢神宮内宮には天照大御神の和魂のみが祀られており、荒魂は別宮の荒祭宮に
わざわざ分けて祀られている。その理由は、大御神様の荒魂が発動しない様に鄭重にお祀りして
いるのである。また、大神神社では大国主神の幸魂と奇魂から化生した大物主神を御祭神として
祀っている。
世界の諸民族は、それぞれの霊魂観を有しているが、我国のそれは、かくのごとく非常に緻密
かつ具体的である。

さて、神の霊を特に御霊というが、我ら生きとし生けるもの全ては、神の御霊を分け与えられた
存在で有るが故に、分霊(わけみたま)と呼ばれる。
人間を例にとれば、受胎後三ヶ月経つと、まず両親の荒魂と和魂たる魄が授けられ
肉体が形成される。
七ヶ月から十ヶ月後には同じく両親の幸魂と奇魂、すなわち魂も授けられる。
そして、出産と同時に一霊たる何れかの神の御霊が宿り一霊四魂が揃うのだ。

但し、同じ分霊でも天皇(すめらみこと)の場合は一般の民とは、かなり事情が異なっている。
御存知の通り、天皇の皇位継承に伴って執り行われる最も重要な国家的祭儀は、
践祚大嘗祭であるが、その際に、新天皇は、現在、すめら教に伝わる天津身手振天津息吹という
秘儀を行なう事によって、高天原に坐す天照大御神の御霊を御身に降し、
天皇霊(すめらみことのみたま)が形成されて初めて真の天皇足りうるとされている。
天皇とは異なり、我々は、頂いた一霊が如何なる神様のものかは誰にも判らないし
知る必要も無い。が、成長の過程で本人が薄々気付く事はよくある話だが。
これら一連の受胎から出産までの流れを取り仕切るのが、産まれた土地の守護神、すなわち
産土神である。
生まれ故郷に帰った時は、必ず産土神様にお参りし、御挨拶に伺うがよい。

過日、多くの日本人が人工衛星「はやぶさ」の偉業を讃え熱狂した。単なる機械と言ってしまえば
それまでだが、人工衛星であろうとも、我らの「わけみたま」として認められているのだ。
我国においては確実にあまねく万象に御霊が宿り、互いに相容れないもの同士であっても
御霊によって結い和(やわ)されている。
posted by 柿添先生 at 12:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月09日

神とは何か

洋の東西を問わず、かたくなな無神論者を除いて人間は太古の昔から
己の人生において常に人智を超えた大いなる存在、すなわち「神」を意識して
片時も忘れる事が無かった。と言っても過言ではない。
人はさしたる努力もする事無しに自己の願望の実現を神に託す習性があるらしく、
先行き不透明な時代になればなるほど、ますます神にすがりつくようになる。
近年、我国では新年の初詣の参拝者が年々増加している。
現金と言ってしまえばそれまでだが、不安を抱えた人々が増えている状況が窺える。

さて、神とは何であろうか。

まず、神の語源は、定説としては南北朝時代の神道家、
忌部正道が『神代巻口訣(じんだいのまきくけつ)』に
「神は常に高天原にあるが故に宇会(うえ)を嘉牟(かみ)と言う」と記した
ことから「上」が「神」となったとされているが、私見としては正直に申し上げて
賛成は出来ない。
言霊の見地からはカ行音は潜在を表し、マ行音は発生や誕生、すなわち顕現を表す。
このようにカとミは正反対の概念を持ち、神もまた陰陽二気による万象示現の理によって
産み出された。
カは火をミは水を表し、火と水は生命誕生の原動力であり、
神の語源を解くカギは言霊にある。

次に、神の概念であるが、一神教世界における神とは全知全能完全無欠な万物の
造物主にして唯一無二という単純明快な存在である。
しかし、多神教世界ではそうはいかない。
殊に我国には八百万と表現される如く多種多様な神々が存在する。
諸君もご存知の通り、神の子たる日本人は人間のみならず山川草木森羅万象全てに
神の御霊が宿ると信じ、様々な自然物や自然現象そのものを神として崇めてきた。
しかも、時に人間の生活を脅かすものにさえ畏敬の念を持ち、決して拒絶する事無しに
神として祀り、共に生きようとする柔軟な姿勢を貫いてきた。
日本人にとっての神は抽象的観念的存在ではなく、実際に目に見える具体的実在の中に
存在するものとして認識されている。

さて、神の語源と概念を踏まえて、神とは何ものであるかを考察したい。
本居宣長は、その著書『古事記伝』において「尋常(つね)ならずすぐれたる徳のありて、
可畏き物を迦󠄀微とは云うなり」と記し、超自然的にして畏敬の念を抱かせるものならば、
事物であれ現象であれ、それらはみな神であるとしているが、僭越ながら今一つ説得力に
欠けていると思うのは私だけではあるまい。
我国には妖怪、もののけ等、得体のしれない霊的な怪物が存在し、時には神に
勝るとも劣らない霊力を発動し、民衆から畏れられていた事実もあり、
宣長による神の定義は現実に即していない嫌いがある。

同じ畏敬の念を抱かせるものでも、神と怪物は切り離して考えるべきである。

神と霊的な怪物との分岐点は公と私に収斂される。
神には私心が無い。ひたすら我が子たる生きとし生けるもの全ての繁栄と幸福を願い、
至高の慈悲、久遠の仁愛、鉄石の真実を具現し給い、常に恵みの光を降り注いでおられるのだ。
そして、神の御心の随(まにま)に現実社会において、我らを守護されておられるのが
スメラミコトである。
これに対し、霊的な怪物は我慾と穢れの極みであり神に代わって世界を支配せんとし、
邪な人間を使嗾して既存の秩序の破壊を目論むものである。

この様に、本来、神とは公においてのみ存在し、広く人類社会を正しく導き守護するものである。
神の世界の拡がりは広大無辺であり、太陽、月、北極星といった天体から、山、海、河川、田畑等、
生物に恵みを与える根拠たる自然や、火、雷、風などの現象に加えて、言葉、音、色、数の中にも
神は坐す。さらに、神道に特徴的な思想として、所謂、人間神が存在する。
これは、公に徹し神の如く崇高な御働きを為し、善く國體の精華を発揮せられた人間を、
帰幽後、神として崇めるものである。楠正成、東郷平八郎、乃木希典を筆頭に、
靖国に眠る御英霊等、我国は偉人たるわけみたまを神として篤く顕彰してきた。

天之御中主神の思いはかりにより天地が開け、産霊二柱を経てイザナミ大神に至る
十七柱の神々が協同し大宇宙の創造を為し、イザナギ大神とイザナミ大神が、
みとのまぐわいを遊ばしてクニを生み、カミを生み、産まれ出でた神々は、
更に新たな神を産み、森羅万象生きとし生けるものを産み育て修理(つくり)固め成す
御神業に邁進された。
我ら人間も、その過程の中で誕生し、畏れ多くも神々と共に国造りのお役目を賜ったのだ。
にもかかわらず、神々の霊統を受くる日本人は、刀折れ矢尽き、目下失意の只中に在る。

日本人よ。案ずるなかれ。希望を捨てるのはまだ早い。神は常に我らと共に在る。
明日を信じ、夢を信じて、かんながらの大道を歩め。
posted by 柿添先生 at 12:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月07日

神道とは何か

目下、我国は妖悪不浄の雲に覆われ、政治経済社会その何れにおいても危機的
かつ悲劇的状況を呈し、未曽有の国難に瀕している。多くの日本人は己の神を見失い、
未来に何ら希望を見出せず、無為無策のままに時代の波に翻弄されている。
同時に近年、かかる情勢下にも拘わらず、民族意識に目覚め、現状を打破せんとする
気概を持った日本人も確実に増えつつある。
彼らこそが、新たな国造りの担い手と成るべきであるが、現状では各団体、集団、
個人が統制の取れぬままに活動し、一部では相互反目すら生じており、
世論を喚起する力とは成り得ていない。

よって、クニの行く末を憂える日本人に共通する行動理念を示し、互いの連帯の絆を育み、
より一層強固なものとしなければならない。
そのためには何よりもまず、肇国以来脈々と受け継がれてきた神道=かんながらの精神に
立ち返って、これを実践する事が肝要である。

そこで、神道とは何かという問いが生じるわけであるが、ここに自分なりの考察を示したい。

神道の語の初出は周易観卦の彖伝の「天の神道を観るに、しかも四時たがわず、聖人は神道を
以て教を設けて、天下服す」に出典を有し、その意味は「自然の理を観察すると、
四季の移ろいには狂いがない。聖人たる君子は理に基づき政治を為せば自ずから人民は
従うものだ」といったもので、この場合の「神道」は自然法則とでも謂うべきものに過ぎない。
平田篤胤は彖伝の神道を「あやしきみち」と読んで一笑に付したという。慧眼である。
一方、我国における「神道」の語は日本書紀用明紀の「天皇、仏法を信けたまひ神道を
尊びたまふ」にみられる如く、単に仏教と対比する必要から使われた用語との見方が根強い。
神道の一般的な理解としては、神道は我国独自の民俗信仰で、自然崇拝祖先崇拝からなり、
その根底には宗教の原初的形態としてのアニミズムが横たわっている。といった皮相的な
ものである。
おそらく読者諸氏にもこの様に理解している者が少なからず存在していると思われるが、
只今より、それは改めて頂きたい。

神道はアニミズムとは似て非なるものである。
アニミズムとは、山川草木自然界における万象には、あまねく精霊が宿り、人々はそれを
神として崇拝するというものである。
精霊と人間の世界は厳然と「分かたれて」おり、両者が交わる事は永遠に無い。
アニミズムとは、むしろ一神教世界における人間の願望の顕われなのだ。
一神教徒は唯一の神のみを崇める事を強制される。しかし、彼らは心の奥底で常に己の
神を求めている。
これは人間の本能である。故に一神教徒は眼前の身近な大自然の中に精霊=神を見るのだ。
但し、それは慰めでしかない。一神教徒は神々の広大無辺な世界を理解出来ない。

これに対し、神道においては、森羅万象生きとし生けるもの全ては、神の御霊(みたま)を
分け与えられた「わけみたま」であり、生きとし生けるもの全ては神が御自ら産んだもので、
生きとし生けるもの全ては、神のわけみたまとしての兄弟家族はらからであり、共に生きる
等しく尊い命である。とされている。人も動物も植物も命に軽重は無い。
神々は尊き御祖(みおや)であり、生きとし生けるもの全ては、神々と喜びも哀しみも分かち合い、
睦み合い、慈しみ合い、同じ道を歩んで来た。この道こそが神の道である。

神道は神の道。清く明るく直く正しい道。肇国以来、神々と、すめらみことと、我等わけみたまが
心一つに歩んで来た道である。
この先、何が起きようとも我等の歩みは止まる事は無い。
posted by 柿添先生 at 11:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月05日

出雲復活

久々の更新である。

万象は神々の意思の顕れであり、私如き一御師が、あれこれ言うのは
おこがましい事ではあるが、これだけは言わずにはおれない。
後でイワナガさんに叱られそうだが。

最近の報道では、例のイスラム国を「自称イスラム国」と表現しているが、
イスラム国は国家以前の原初的な「クニ」の姿である。
人々の想いが行動が集約されクニは深化し国家となった。
故にイスラム国と形容して良いと思う。あくまでも私見だが。

スサノオ自ら種を撒き、慈しみ育てたはずの物質文明は、拝金主義と弱肉強食の
鬼畜世界と化した。
事ここに至っては、おびただしい人柱が生まれようとも、全てをぶち壊し
立て替え立て直しをせねばならぬ。

こうしてスサノオは鬼神となった。

イスラム国は、そんなスサノオの荒魂の発動の顕現である。

彼らの行状は決して許されたものではないが、あまねく全てを一新する破壊力を
秘めている。

神を知らぬアシュケナージは、為すすべも無い。

一方、スサノオに呼応して動き出した神が在る。

川崎で13歳の少年が惨殺された。
少年は隠岐国西ノ島町で育ち、家庭の事情で川崎に移り住み殺された。

西ノ島町には隠岐国一宮「由良比女神社ゆらひめじんじゃ」が鎮座する。
由良比女神社の御祭神は須世理毘売命スセリビメ。スサノオの娘にして大国主の妻である。

神々は大事を為さんとする時、必ず人柱を求めるものだ。
西ノ島町育ちの少年はスセリビメに呼ばれ、ハルナという名の日本人は中東にて
スサノオに召還された。

いよいよスセリビメが動き出した。怖い怖い。
大国主も、のほほんとしてはいられまい。

3・11に国常立の結界は破れた。以来、続々と、封印された国津神の結界は
壊された。もはや誰にも高天原の決定を覆す事は出来ない。

出雲国復活か。やがて千家の子が皇室に入る日が来るやも知れぬ。

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2015年01月20日

カインとアベル

イスラム国が日本人二名を拘束し、72時間以内に身代金を支払わなければ殺害する。
との警告が、ネット上のビデオにて公開された。と、本日、AP通信が報じた。
これも、お約束だ。

平成16年にもイラクで日本人三名の拘束騒ぎがあったが、
彼らは世間知らずの田舎者に過ぎず、今回は明らかに位相が異なる。

一神教世界の神々の争いに我国を引き込もうとする勢力が動き出した。
何が何でも聖書の預言を成就させたいのだ。

ユダヤ教からキリスト教が生まれ、さらにイスラム教が派生した。
ユダヤ教を母体とするキリスト教とイスラム教は謂わば兄弟である。

兄のキリスト教はカインよろしく神からの独立志向を持つが、
弟のイスラム教はアベル同様、神に従順である。
が、カインがアベルを殺したように、キリスト教がイスラム教を潰す事は不可能だ。
両者は合わせ鏡の如く、どちらが欠けても成り立たない。

よりによって本件は、安倍首相がイスラエル滞在中に発覚した。
タイミングを合わせたとしか思えない。
かんながらのクニの首相がユダヤ教の総本山を訪れる、この時を待っていたのだ。

ユダヤ教は「かんながら」から誕生した。ちなみに神道は更に後だ。

神々の争いに終止符を打つのは、神国日本に他ならない。

安倍氏は其の辺のところ判っているのか?田布施人なら判るはずだ。

日の出る方角の王たちが大ユフラテを越える日は近い。
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2014年10月25日

神道の根源

我国を代表する哲学者の西田幾多郎ならびに和辻哲郎は、共に仏教思想に
強い影響を受けていた。
東洋思想を下敷きにした彼らの哲学は西洋哲学と一線を画すものではある。
が、仏教は一神教的な価値観を有し、自己と異なる他者への寛容の精神は
不十分であった。
そこには、仏教とそれ以外の思想を分けて、あくまでも仏教の優位性を強調する
立場が見受けられる。
これは、キリスト教原理主義に見られる二元的価値観に近い思想である。

二元的価値観とは、二元論に立脚した価値観であり、多元的価値観とは、
多元論に立脚した価値観のことを言う。
二元論とは、もともと哲学の用語で、世界に存在するあらゆる事象は、すべて二つの
原理で成り立っているとする。
これに対して、多元論とは、二つ以上の複数の原理の存在を認めるものである。
我国の価値の根源を為す神道思想そのものである。

そして、近代の哲学は、この二元論を支持する立場にある。
デカルトは、その著書「省察」において「我思う。故に我あり。」と述べた。

「思う」という行為は意識であり、精神である。「我あり」とは、精神とは独立した
物質である存在の「我」を認識したという事である。
つまり「我」の中には精神と物質の二つの存在が確認される。
これを、心物二元論と言う。

近代の哲学は、デカルトの心物二元論を契機として発展してきた。
と言っても過言ではない。
しかし、現実世界の全てのことがらを、精神と物質のたった二つの原理で
説明することは不可能である。
さらに、原理が二つしかない場合、一方を肯定すれば、他方を否定せざるを得なくなり、
否定された側は、必ず復讐に打って出る。
このように、二元論に立脚した二元的価値観の世界は、常に異なる二つの原理の
闘争の場となる危険性を孕んでいる。

現在、世界では、パレスチナにおいてユダヤ教とイスラム教が、中東ではイスラム教と
キリスト教が戦争の只中にある。
これら一神教はまさに二元論の世界観しか持ち合わせてはいない。
事実、歴史的に見て、大戦争の勃発はすべて、一神教世界に端を発している。

神道においては、世界を、異なるたった二つの原理の対決の場とは捉えず、
多様な原理が等しく並び立つ場である。と考える。
これらは互いに切磋琢磨し合い、高め合い融和し、さらに新しい原理を生み出し、
豊かな人類社会を創造する原動力となる。
我が国に大陸から仏教が伝来した際、神道はその大いなる寛容の精神でもって、
これを迎え、共に生きてきた。

この「共に生きる」という考え方こそが、神道の重要なテーマである。
神道においては、森羅万象生きとし生けるもの全てに、神が宿っているとされているが、
この本当の意味は、森羅万象生きとし生けるもの全てが、平等に尊重されるべき貴い
命であるということなのだ。
全てとは、まさに全てである。人間も動物も植物も、山や海など地球の自然も大宇宙の
星たちも、あまねく全てである。

神道の世界においては、あらゆる人種も宗教も否定されることはない。
一神教世界は二元的価値観から脱却し、神道の多元的価値観に学ぶべきだ。

神道に於いては、そもそも民族に優劣の差を認めない。
個々の民族は、それぞれの伝統・文化・宗教を堅持し互いの原理を尊重し、
平和のうちに共存する。ということが在るべき姿であると考える。

これを可能にするのは、神道の大いなる寛容の精神に他ならない。

神道に於いては、異なる価値観は神々によって結ばれ、世界は、多様な原理が
等しく並び立つ場であると考える。
そして、それぞれの原理は、平和な交流によって高め合い、融和し、
さらに新しい原理を生み出すものである。
新しい原理こそが、豊かな人類社会を創造する原動力となる。

ところが現実の世界は、これとは全く逆の状況にあるのだ。

神道は、現在、確実に破滅へ向かって突き進む人類にとって、最後の希望であり、
今後、我々の向かうべき地平と拠って立つべき処を明確に示している。



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