いつも閲覧有難う御座います。 柿添です。一つ御願いがあります。 「目下、我が国は妖悪不浄の雲に覆われ、 政治、経済、社会その何れに於いても、 未曾有の国難に瀕している。 多くの日本人は、己の神を見失い、 未来になんら希望を見出せず、 無為無策のまま時代の波に翻弄されている。 かかる状況に在って、我々神の子は 肇国の原点に立ち返り、天孫降臨以来 脈々と受け継がれてきた、かんながらの 精神に則り、神のみはかりを尊び、 祖先の恩に報いるべく正しき道を歩み、 互いを尊重し、共に生きる喜びに溢れた、 人類の理想郷たる豊葦原の瑞穂の国、 神国日本の再興を招来すべく 一層奮励努力せねばならない。 我々は、道を見失い失意の淵にある わけみたまに、共通の行動原理を示し、 連帯の絆を育み、さらにより一層 強固なものとし神国日本の再興を招来する 原動力としたいと思う」 そこで今後、日本復活に向けて共に知恵を 出し合い活動する同志を求めます。 活動母体は「日本復活講」と名付けます。
老若男女問わず、我こそはと思う方は、 下記へ送信願います。 宜しくお願い申し上げます。 pripia@nona.dti.ne.jp

2013年01月28日

子持神社

先日、或る武道家の紹介で、群馬県渋川市に鎮座する
子持神社の社家一族の方と知り合った。

私は子持神社という名前は知っていたが、参拝した事は無かった。
しかし、今回の出会いが印象深かったので、いろいろ調べてみた。
すると、我が榛名神社とは、或る不思議な関係性を有している事が
判明した。

子持神社の主祭神は木花開夜姫命で、配神は邇邇芸命、猿田彦大神、蛭子命、
天鈿女命、大山祇神(サクヤ姫の父)、大己貴命(大国主大神)、手力雄命、
須佐之男命となっている。
但し、もともと主祭神は大己貴命で、いつしか交代された様である。
とすると、元は出雲系か。

ニ二ギとサクヤ姫、猿田彦とウズメ様という二組の夫婦神は良いとして、
ヒルコを祀っているとは実に興味深い。全国でも珍しいのだ。
さらに、ニ二ギを除く神々は全て、国譲り前に活躍した神々である。
渋川も榛名同様、カムヤマト朝以前の文明圏である可能性が高い。

さて、榛名神社との不思議な関係だが、子持神社は榛名神社の北東に在る。
つまり鬼門の方角である。逆に言えば、榛名神社は子持神社の南西方向、
すなわち裏鬼門に在るのだ。
そして、両社の中ほどには、浅間山が在る。これが何を意味するのか。

実は、榛名神社の主祭神はイザナギ・イザナミの夫婦神だったが、
火の神と土の神に交代された。私は天海僧正が怪しいと睨んでいるが。
子持神社にナギナミの最初の子、ヒルコが祀られているのは何故だろうか。

現時点では解せないが、古代に社のネットワークが構築されていたに相違ない。
今回の出会いはまさに「神はかり」であり、やがて、それが極めて重大な意義を
持っている事に気付くであろう。
posted by 柿添先生 at 18:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月20日

御遷宮と幽契

諸君も御存知の通り、今年は神宮と出雲大社の遷宮が重なる。
神宮は20年毎に出雲大社は60年毎に遷宮されるが、今までに
一致した事は、記録には無い。

今年は大変に意義深い年となるに相違ない。
神々にとっても我ら神の子にとってもだ。

スサノオが高天原で乱暴狼藉を働き、それを深く悲しんだ
天照大御神が、天の岩戸に御隠れになった話は有名だが、
アマテラスが岩戸から出てきた後に、スサノオとある約束を
交わした事は、現在では、ほとんど知られていない。

その約束とは幽契(かくれたるちぎり)といい、月読命の仲介によって
為されたものである。
幽契により、顕世をアマテラスが幽世はスサノオが、それぞれ主宰すると決め、
姉と弟は永遠の別れを自ら選択した。
その後、顕世はスメラミコトが、幽世は大国主大神が知らす事となり、
神宮の内宮にはアマテラスが、出雲大社には大国主が祀られたのだ。

姉と弟にとっては辛い別れであったが、スメラミコトは幽契の意義を善く理解し、
顕幽一体(一如)に基き政治を為した。これこそが顕世における政治と幽世の祭が
等しく並び立つ「祭政一致」であり、神武創業の根本理念なのだ。

明治維新は神武創業の始めに原き為されるはずが、外国勢力と奴らに魂を売った
貧乏公家と田舎侍によって換骨奪胎されてしまった。
一人、大西郷のみがスサノオよろしく荒魂を発動し抵抗したが時代の波間に消えた。

神宮と出雲大社の御遷宮は、幽契を今に蘇らせる又と無い契機となろう。
戦後レジームからの脱却とは、祭政一致の復活に他ならない。




posted by 柿添先生 at 11:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月14日

共に生きる喜びを取り戻せ

かんながらの精神には、神々と人間が、そして生まれながらに
異なる資質を持つ人間と人間が、「共に生きる」と言う事が、
根本理念として掲げられている。

天孫降臨以来、我国に於いては、神々は日本民族を守護し給い、
人間は、それによく応え清く明るく直く正しい道を歩むことを旨としてきた。
神々と人間の共生の姿は、農作業、とりわけ「米作り」と収穫の祭りに
最もよく顕われている。
人々は、老いも若きも、男も女も、共に汗を流し力を合わせて、
荒地を開墾し土壌を整え、水を引き、苗を植え、一日たりとも休む事無く
黙々と働き続けた。
神々は、人間を温かく見守り、四季の巡りと風雨の潤いを与え給うた。

このようにしてもたらされた豊作を祝い、祭りが行なわれた。
祭りは、神々と人間の交歓の場であると同時に、交流の場でもあった。
人間は豊作を神々に感謝し、神々は人間の努力を称え、共に喜び合い、
御馳走を食べて、酒を酌み交わし、歌い踊り、互いの絆の深さを実感したのだ。

ところが、古(いにしへ)より連綿と続いてきた神々と人間の共生は、
大東亜戦争後の、GHQ(米国)による「神道指令」を始めとする、
諸占領統治政策により否定され破壊されてしまった。
これによって、八百万の神々は歴史の彼方へと追いやられ、日本の社会は、
人間同士の競争と闘争の場と化してしまった。

キリスト教は、自分が生まれながらにして背負っている罪=原罪を、あがない、
神に許しを請う事こそが、人生の大きな目的と説いている。
信徒は、原罪をあがなう為には、自分を高め、努力をして徳を積まなければならない。
と思い込んでいる。米国は特に、その傾向が強いのだ。

米国の社会は、皆が自分を高め、自分だけが神に許されようと必死になり、
過酷な競争が繰り広げられる、厳しい弱肉強食の世界に成り下がってしまった。
そこにはもはや「共に生きる」という概念は、微塵も存在しない。

米国の占領政策によって我国の社会は、こうしたゆがんだ競争原理に、
完全に毒されてしまった。原理とは盲目と同義である。
殊にバブル崩壊後、日本企業は生き残りを懸け、米国流の冷酷な成果主義や能力主義に
基づいて社員の選別を始めた結果、勤労者の労働の意欲は薄れ、人心は著しく荒廃し、
自殺者が激増し、将来に対して何の希望も見出せないでいる日本人が増えてしまった。

近年、能力において自分より劣った人間や社会的な弱者が、つまはじきにされたり、
殺人や虐待などの、凶悪で痛ましい事件が頻発しているのも、この事と無関係では無い。

今こそ、全ての日本人は神道の精神に立ち返り、神々と人間、人間と人間が、
互いを尊重し共に生きる喜びに溢れた、古き善き時代の日本を現代に蘇らせるべく、
行動を起こさなければならない。

日本復活講より
posted by 柿添先生 at 12:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする